嘘ついていました|正直にいきる生き方

かなり今さらですが、、、実は一部私は嘘をついていました。
この生き方ブログをはじめておおよそ2年半の間、ずっと私はあなたに嘘をつき続けてきました。
もうしわけありません。
それは何かというと私の名前です。
ずっと徳田慎之介という名前を使ってきましたが、これは偽名です。
私は大学生の時に、「暴れん坊将軍」が大好きでした。
暴れん坊将軍こと徳田新之助は、いつもは貧乏旗本の三男坊として、火消しの辰五郎のところに居候しているのですが、実は市井の状況を把握しようと努めた徳川吉宗の仮の姿。
悪代官などを見つけては、徳田新之助として近づき、最後は「余の顔を見忘れたか?」と言って悪代官ら悪役にいい、その瞬間悪役ははっと、将軍吉宗の顔を脳裏に浮かべ、「う、う、上さまっっ」とそのまま平伏します。
もうはや万事休す、悪役たちは、「ええい、出会え出会え、こやつは上様の名前をかたる不届きものじゃ、きりすてーい」といってチャンバラが始まり、最後には吉宗が勝つという勧善懲悪のストーリーです。
私は、この単純なストーリーがすかっと心に気持ち良く、大好きでした。
実は、私の名前は、秋山慎也といいます。
その他のプロフィールはまったくかわりません。
単に名前が違っているだけです。
どうして名前を変えていたかというと、当時は観光協会職員で、副業をしていることをばれたくなかったからです。そこで、ネット上の名前は、徳田慎之介という偽名を使っていたのです。
暴れん坊将軍が市井では、徳田新之助となのっていたことにかけただけです。
ただ、暴れん坊将軍で吉宗が、市井ではしんさんと呼ばれていたことから、私の名前は秋山慎也なので、しんさんとあだ名で呼ばれることは非常に大好きでした。
ということで、私は基本的に自分にも他人にも正直に生きる生き方が、一番シンプルでよいと思っているので本日懺悔させていただきました。ところで、どうして今のタイミングになったかということですが、、、観光協会は一年半前に退職していたので、すぐに打ち明ければよかったのですが、、、、ずっと忘れていました。
今回自己紹介ムービーを撮影したので、これは良い機会だと思い暴露することにしたわけです。
偽名を使っていて、ご免なさい。
改めて自己紹介させていただきます。

※ここから下は、動画の内容を文章に起こしたものです。
1980年4月24日、島根県の隠岐の島で私は生まれました。
献身的な母親と、遊び人の父親、よく太った祖母からの愛情を受けて
すくすくと育ちました。
 
小さい頃は、とても明るくて、元気で優しい子と言われていました。
近所の年上の友達に、山や空き地などに連れて行ってもらって、
毎日、元気に遊びました。
 
小学校のころは、野球と、ドッチボールが大好きでした。
将来、プロ野球選手になりたくて、毎日壁に向かって投球練習をしていました。
でも、お金がなくて野球チームには入れませんでした。
 
小学校3年生の夏休みに、ローラースケートで転んで骨折、
ぽっちゃりデブになってしまいました。
この出来事をきっかけに、
活発で元気な子から、大人しくて真面目な優等生になっていきました。
 
中学校にあがると、周りの人がぐれ始めました。
私は、そちらに流されないよう戦い、正しさを追求するようになりました。
 
成績はずっと学年一位で、生徒会長にもなりました。
まじめまっしぐらになり、反抗することを忘れていったのです。
 
一方、家では、父が母を殴るようになり、
私は毎晩、間に入って止めるようになりました。
そして、
高校受験 合格発表に日に、母と夜逃げをして、私の両親は離婚しました。
 
 
高校生になった私は、窮屈な島を出て、本土の進学校に進みました。
はじめて親から離れて、寮で生活することに。
県内一の高校で、成績も島じゃ常に一番だったのが、
中の上くらいになり、挫折を味わいました。
 
高2くらいになると、たばこ吸ったり、酒を飲んだり、
お決まりの誘惑にすべて引っかかりました。
でも、田舎者の憧れである、東京の大学に行きたくて、
勉強も一生懸命がんばりました。
 
都会に憧れ、少し色気づいたりして、おしゃれをするようにもなりましたが、
勇気がなくて、好きな人に思いを伝えることさえ、
そのころの私にはできませんでした。
 
そして、センター試験に失敗、浪人できないから、大学は妥協することに。
 
母子家庭でお金がなかったので、憧れの東京に近く、かつ入学が簡単だった国立大学の、埼玉大学に入学しました。
入学料も授業料も免除してもらい、住まいは危険建築物の指定を受けている寮でした。
寮の部屋に入ると、一升瓶はおいてあるし、27歳の先輩はいるし、
いろいろとカルチャーショックを受けました。
そして、4人部屋なのが耐えられなくて、一刻も早く出ようと決めました。
 
稼げるバイトを探して、3ヶ月でお金を貯めて引っ越しました。
そのバイトは、家庭教師のトライの営業、これが営業との出会いだったのです。
とにかくお金がなかったので、仕事をしながら、簡単な授業ばかり選択して、
2年間で必要な単位はほぼ取得。3年生からは、派遣社員として週5日、日中に働くようになりました。
大学生でありながら、普通のサラリーマンくらいお金を稼いでいて、「ビジネスで成功してやろう」、少しずつそう思うようになった。
 
大学生活を親からの支援なく、自分で切り開いていったことは、
人生において大きな自信となりましたが、
一方で、自分の性に自信が持てず、彼女もできませんでした。
一度も、惚れた人に気持ちを伝えることができなかったのです。
寂しくて、自分の根底に自信が持てなかったのです。
 
大学生時代、完全にビジネスをなめてしまった私は、
会社は通過点にしかすぎないと考え、テキトーに製造業で働きました。
製造業は、私にはまったく向いていなかったようです。
ベルトコンベアが曲がって居るぞ、って怒られても、
私には曲がっていることがわからなかったのです。
毎日がとてもしんどくて、私の仕事はこれじゃないと思っていたけど、
忍耐の三年を経て、ようやく営業部に配属、もう一つの憧れであった京都へ転勤になりました。
でもその会社は、完全ルート営業でまったくおもしろくありませんでした。
ちょうどその頃、付き合っていた彼女に子供ができ、彼女が関東出身だったので、ひとつの理由付けとして会社を辞めて、関東勤務の会社へ転職。
 
転職してすぐに子供が生まれました。生まれた我が子に、りんたろうと名付け、絶対に幸せに育てようと誓いました。
 
離乳食がはじまると、当時の妻は、ヒステリーを起こすようになり、
仕事をしていると、毎日、発狂した前妻から連絡が入るようになりました。
仕事に集中もできず、かといって、家のことばかりかまってばかりいるわけにはいかず、悩んでいた時に、ある出会いがありました。
人生の恩人となる黒沢社長との出会いです。
 
黒沢社長は、親身に私の相談に乗ってくれて、私が成長しなければならないことを教えてくれました。
そして、自己啓発セミナーを紹介してくれました。
 
はじめて出会った自己啓発で私の人生は大きく変わりました。
前向きになり、自分の可能性を信じるようになったし、
夢を追いかけ、言い訳をシャットダウンしました。
絶対に自分らしい人生を築いて見せるぞ、と心に決めました。
 
でも、家庭環境は変わらず、むしろ前妻の状況は、ますます悪化していきました。いろいろな人が、秋山くんは変わったね、と褒めてくれましたが、前妻だけは私を褒めることはありませんでした。
 
さらなる進化をしなくてはいけない、と考えた私は、自己啓発を紹介してくれた恩人の黒沢社長に声をかけてもらい、将来の夢だった保育園を作るための修行のために、ライズグループという不動産会社に転職しました。
 
はじめての不動産投資営業の世界。
毎日300本電話して、アポイントは一件もとれない日が続きました。
 
半年たっても一件も売れませんでしたが、
黒沢社長は、私が一部上場会社から転職してきたから、同じ条件じゃないと雇えない、と高額な給料をもらっていたので、本当に申し訳なく感じていました。
 
この頃は毎日が戦いでした。
毎朝6時半に家を出て、帰宅するのは0時過ぎ。休みも極端に減りました。
当然、家族の時間がなくなり、自分の修行のつもりが、家庭環境はますます悪化、前妻は自殺未遂をするまでになりました。子供の成長への影響が怖かったのですが、離婚はできませんでした。
 
転職して半年が過ぎた頃、初めてマンションが売れました。私のことを信じてくれたお客さんがいたのです。めちゃめちゃ嬉しくて、申込書と手付金を預かった帰り道、地下鉄の構内で泣きました。
ここから、少しずつマンションを売れるようになり、転職して2年、役職も上がったという時に、東日本大震災が起こったのです。
 
放射能が関東をおそう、と思った私は、息子を隠岐の島の実家に託して、妻と別居、離婚交渉に入りました。
息子と別居して一年後、離婚交渉はまとまらないまま、私は隠岐に帰りました。大恩ある黒沢社長のライズグループを退職して島に帰るのは、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも、当時の私には仕方なかったのです。
 
隠岐に帰った私は観光協会の臨時職員になりました。
月給14万円、実家に居候のシングルファザーでした。
さらに、誰にもいえませんでしたが、私には借金もあったのです。友達の企業の保証人になってその会社が倒産したためのもので、毎月10万円の返済をしていました。
当然、隠岐に帰って間もなく、私の貯金は底を尽きたのです。
臨時職員のままじゃ返せない、かといって、他により就職先もない。
そこで、なんとか自分で収入を得ることができないか、必死で探りました。
 
そして、インターネットしかないと思い、アフィリエイトに出会ったのです。
 
毎日、夕方6時に帰宅して、皆でご飯を食べて、息子と9時半に寝て、
毎朝3時に起きて、6時半までサイトを更新してから、
子供の面倒を見て出社する、そんな日々が始まったのです。
3ヶ月で初報酬を得て、半年で10万円稼げるようになりました。
さらに、数ヶ月で月収70万円を突破すると、月給14万円なんてやってらんねーと、観光協会を退職しました。アフィリエイトをはじめて一年も経っていなかった時です。もちろん不安もありましたが、隠岐に帰ってからできた彼女が後押ししてくれたので、決意が固まりました。
 
独立してから報酬は山あり谷ありでしたが、
今年 2014年は年収1,200万円を突破して、彼女と一緒に株式会社をつくることもできました。
全ての子供たちが自分を大好きになり、夢と希望にあふれて社会に出て行ける、そんな世の中のみちしるべになりたい、という気持ちから、会社名は「みちしるべ株式会社」と命名しました。
まだまだ小さな会社ですが、ここ隠岐の島から、
誰もが皆、自分の人生を選らんで幸せな人生を歩むことができる、
ということを伝え、本当に幸せな生き方とは何かを世界に発信していきたいと思っています。
あなたは今、幸せですか?
私と一緒に、自分らしい幸せな人生を、夢を叶える人生を、見つけてみませんか?
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
 

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